2013/03/21

自己紹介





氏名: 絹張 龍平 (Kinubari Ryuhei)
生年月日: 1990年6月5日 (双子座)
出身地:北海道紋別郡湧別町(現在は札幌市在住)
血液型: B型
身長: 175cm
体重: 70kg




好きな食べ物

カレーライス、餃子、ピザ、焼肉、寿司、ラーメン、ハンバーグ、そば、うどん


好きな鳥

オオワシ、オジロワシ


好きな海

オホーツク海


好きなアクティビティ

外遊び、登山、カヌー、釣り、キャンプ、焚き火、ヒッチハイク、旅


興味

木、土、農業、酪農、ゲストハウス、ログハウス


好きな映画

IN TO THE WILD、スタンド・バイ・ミー、ペイ・フォワード、転々、ソラニン


好きな音楽

くるり、bonobos、ハナレグミ、RADWIMPS、BUMP OF CHICKEN、ASIAN KUNG-FU GENERATION、 Alfred Beach Sandal、斉藤和義



小学生時代

3年生まではとにかくたくさん遊んでいたことしか覚えていない。
4年生から姉の影響でバスケットボールを始める。
5年生のときは悪いことをたくさんしていた。
6年生になってキャプテンに抜擢され、心を入れ替えて良い子になる。この頃からバスケが生活の中心になっていき、本気で自分が日本人初のNBA選手になると思っていた。地区優勝して全道大会(本州で言う県大会)に出場するが、予選敗退。人生初の挫折。
学校、バスケ以外では、父とよくカヌーや登山や釣りにいった。毎年家族でキャンプにも行っていた。


中学生時代

鳴り物入りでバスケ部に入部。上級生を差し置いて試合に出るも自分勝手なプレーばかりで試合は負けてばかり。地区選抜のメンバーに選ばれ、地区対抗の全道大会に出場し準優勝する。

2年生のときに監督が変わり練習がハードになる。だんだん試合にも勝てるようになっていった。
2年生のときも選抜のメンバーに選ばるも2回戦か3回戦で敗退。(リーグ戦だったかも)

3年生になるころには地区でも有名な退場王にまで成長していた。しかし、周囲の期待に応えることができずに引退試合ではフル出場を果たす。(試合は負ける)
夏は毎日のように花火をしていた気がする。火遊びが好きだった。あとバスケ部のみんなでよく釣りをしていた。
相変わらず父との外遊びも行っていた。
この年に家族5人でいったキャンプの感想文でなんか賞をもらった気がするけどあんまり覚えてない。



高校時代

全国大会に行ってみたいという漠然とした思いから、全国大会常連の東海大学附属第四高等学校に進学。道内屈指の強豪校に行くのだから試合には出られないだろうし、ベンチにだって入れてもらえないだろうと思っていたが、とにかく強いチームでバスケットがしたかった。
高校の3年間は校舎直結の寮で生活した。男ばかりの寮生活にはじめは戸惑いがあったし、代々受け継がれている理不尽な規則に困惑していた。
強豪校だけあって、練習は辛かった。

1年生のときはインターハイ、国体、ウィンターカップのどれも出場できなかった。
学校生活では、授業中にPSPでメタルギアの通信対戦をしたり、冬は隣のクラスが体育で無人なるたびに窓を全開にして極寒の教室をプレゼントしたりして楽しんでいた。
後期に学級副委員長に立候補して見事当選。

2年生の夏に北海道2位でインターハイ出場。僕は応援席。それでも楽しかった。試合に出るメンバーとサブのメンバーは宿舎が別で、サブのメンバーにとって遠征は観光気分だった。(応援は全力だったけど)
この夏僕を含むサブのメンバーは、博多のホテルで全員頭を丸めた。当時はかなり不服だったけど、今となっては笑い話だ。
2年生になって学級委員長に任命された。(なぜか学年主任の指名だった)
学級委員長に任命されたからには勉強を頑張らないといけないというよくわからない使命感から授業を真面目に受けるようになった。成績がぐんぐん上がっていった。

3年生になってから道内では負けなしだった。インターハイ、国体、ウィンターカップすべて出場した。僕はベンチ。ベンチ!!嬉しかった。でもエースの怪我で空いたベンチに座るのは複雑な気持ちだった。
3年になってなぜか突然理系クラスに移った僕は、成績が急降下した。
ウィンターカップまで残った僕が引退したのは12月25日。周りの人は推薦で進学先がほぼ決まっていた。
もちろん自分も推薦での進学を勧められてはいたのだが、花粉症を理由に断っていた。
年が明けてから受験勉強をはじめた。しかし遅すぎた。(当たり前だ)
なんとか滑り止めに受けた北海学園大学2部(夜間部)に合格した。


大学入学から現在

大学でもバスケ部に入部した。夏休み前にやめた。
とくに目的なく大学に進学して、バスケ部もやめたので何をしたらいいのかわからなくなり、ひたすら映画を観まくる生活が続いた。
映画に関わる仕事がしたいと思うようになり、本を読んだりして映画関係の勉強をした。しかし、映画は作るより観る方がいいと思い振り出しに戻った。大学1年目が終わった。

2年目はバスケ部に復帰。夏休み前にやめた。そのあとはバイトばかりしていた。気がつくと学校に行かなくなっていた。今思えば完全に自分を見失っていた。それでも毎日、自分がやりたいことは何なのか、自分の夢ってなんなのかを考えていたと思う。

3年目が始まる前の冬、高橋歩の本に出会う。旅がしたくなった。そのタイミングで高校時代からの相方である村井氏から電話がきた。「おもしろい本を見つけた。」と村井氏は言った。高橋歩の本だった。
2人で旅をすることになった。行き先は沖縄。ノープラン1週間の旅だった。
初めての自由な旅。初めての沖縄。初めてのヒッチハイク。
最高だった。僕たちは完全に旅にハマってしまった。
3年目は旅の資金稼ぎのためにバイトばかりになっていた。(全然貯蓄できてなかったけどね)
この年の夏に村井氏と共にヒッチハイク日本縦断の旅を決行。「でもただヒッチハイクで日本を縦断するのは面白くない。」「スピードだ。」「どれだけ早く沖縄まで行けるかに挑戦しよう。」ということになり、朝早くから夜中までヒッチハイクをする旅になった。(九州ではほとんど徹夜でヒッチハイクしてた)
10日で沖縄についた。そのうち2日は神戸に滞在していたので実質8日だ。
たくさんの出会いに感謝した。
この年から自然やアウトドアという言葉が自分の中で大切なキーワードになっていた。
自然体験活動指導者養成講習に参加したのも3年の冬だった。

4年目の春。僕の留年は確定した。しかしその現実を受け止められずにマレーシアへ飛んだ。10日間の旅。
僕にとっては初めての海外旅行だった。マレーシアで2日目の午後、村井氏マレーシアに入国。観光が出来なほどの言葉の壁は感じなかったけど、ゲストハウスでいろんな国の人たちとの国際交流に参加できず悔しくて泣きそうだった。
帰国して絶望の4年目が始まった。普通ならあきらめて中退してもおかしくない必要残り単位数だったが、きっと大丈夫!という根拠のない自信で満ち溢れていた。
4年目の夏は山に登った。登山指導者講習にも参加した。低い山ばかり登っていたけど、初めての縦走に挑戦して遭難もした。あのときは本当に死ぬと思った。
夏休みが終わる直前にゲストハウスのヘルパーをやってみたいと思い、札幌にあるTIME PEACE APARTMENTでヘルパーを始めた。軽い気持ちで始めたんだけど、想像以上に良い経験ができた。(ヘルパー体験記を書きました。)

4年目が終わった。


本当に今さらだし、もう遅すぎるけど
今年は本気で変わらないといけない。
決意の年にしないといけない。

いよいよ5年目が始まる。


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